なぜ、ローズはフィンの犠牲を邪魔したのか

この記事はスター・ウォーズ 最後のジェダイのネタバレを含みます。

 

問題のシーン

 

最後のジェダイの最後のほう、

惑星クレイトでの戦いの中で、今にも発射しそうな大砲に向かって

フィンが自分を犠牲にしようとするシーンがある。

 

このシーンで私たち観客は 

「もしかして本当にフィンは死ぬんじゃないか」と思ったのではないだろうか。

そして、もしフィンが本当に自分を犠牲にしたら、

物語として非常に感動的だと思ったのではないだろうか。

 

ところが、 予想に反して後少しのところで

 ローズが自分の飛行機をフィンの飛行機にぶつけ、

フィンの命を守るのであるが、

 同時にフィンが自分を犠牲にするのを邪魔してしまい、

 私たち観客もある意味でがっかりしたのだ。

 

フィンの動機

 

フィンの行動原理、フィンが何かをしようとする動機、理由は

映画の初めでは反乱軍のためでも、大義のためでもない。

自分の好きな人、レイを助けたいだけなのである。

言ってしまえば自己中心的な動機である。

 

フィンは前作・フォースの覚醒でファースト・オーダーから逃げることが

最初の行動原理だった。そして、レイと出会った後も、マズ・カナタの酒場で一旦別れるほど、それが彼にとって最も大事なことだった、レイとの友情よりも優先順位が高かったのである。

 

ところが、そのすぐあとにファースト・オーダーがマズ・カナタの酒場を襲うため、

レイを守りたい一心でフィンは戻ってくるのである。

 

そして、映画の最後までフィンの動機はレイを助けることのまま、

カイロ・レンに気絶させられ、フィンは昏睡状態のまま

今作につながるのである。

 

すると、フィンが行動する理由はレイを守るためでしかないままなのである。

 

フィンの成長

 

多くの人にとって

この映画で最もつまらなく、中だるみしたと思われている

惑星カントニカにある街カントーバイトへの旅のシーンだが、

このシーンの目的は

自己中心的な動機で生きてきたフィンが

大義のために戦う人に変えられる、成長するためであった。

 

ローズとDJはフィンが成長するために存在している。

 

ローズはフィンが大義のために生きるように教え諭すため、

DJはフィンがそうしないように足をひっぱるために存在している。

 

ローズはフィンに初めて会った時から、彼のやろうとしていることが

反乱軍のためではなく、ローズを助けることだけであることに呆れており、

カントーバイトの華やかさに見とれている、フィンの軽薄さにも呆れており、

度々彼に説教をする。

 

対して、DJは

フィンにいいもんとか悪もんだなんてそんなの見方によるのだから、

自由に生きろ、どちらの仲間にもなるなとアドバイスする。

 

フィンが選んだ道

 

ローズとDJが言うことの間で揺れたフィンは

どのような生き方を選んだのか。

 

それは

ファズマとの一騎打ちに表現されている。

 

前作で死んだはずのファズマがなぜ再登場しているのか。

 

それはファズマがフィンの過去のアイデンテティ

(自分は何者であるかの自覚)を表す

象徴的存在だからである。

 

フィンはファズマを倒す、最後の瞬間

こんな会話をする。

ファズマ「お前はいつもクズだ。」

フィン「反乱軍のクズさ」

 

これはなんでもないセリフのやりとりのようでいて

衝撃的である。

 

フィンはこの瞬間まで自分が反乱軍の一員だと言ったことはない。

しかし、この瞬間、フィンは初めて、自分が反乱軍の一人だと告白するのである。

 

このシーンこそフィンが

大義のために戦うということを決めた瞬間なのである。

 

もう一段階の成長

 

ここでやっと、記事のタイトルの話ができる。

なぜ、ローズはフィンの犠牲を邪魔したのか?

 

彼はファズマと戦うとき、

自分のアイデンテティーを反乱軍の一員だと自覚した。

 

しかし、大砲に飛び込む時点での彼の動機はまだ

愛する者を守ることではなく、

自分の憎む相手を倒すことであった。

 

フィンは元ストーム・トルーパーである

悪い軍隊の一員として

育てられたトラウマと

ファースト・オーダーへの憎しみは計り知れない。

 

ぶっつぶせるなら、ぶっつぶしたい相手なのである。

 

ローズはその動機を見抜き、

大義のために戦うとは

相手への憎しみを動機にするべきではなく

愛する者を守ることが動機であるべきなのだと

さらに教えるために

フィンの自己犠牲を邪魔したのである。

 

(もちろん、ローズ自身がフィンのことを

愛していたから守ろうとしたのも理由だが)

 

ホルドーとフィンの何が違うのか

 

多くの人がフィンの自己犠牲をローズが邪魔したときに

違和感を覚えたのは

その直前にホルドー提督が自分を犠牲にして

反乱軍を守るシーンがあったからではないだろうか。

またローズの姉やルークだってある意味で自己犠牲を

して、仲間を守る。

 

自己犠牲を散々肯定しておきながら、

フィンだけ自己犠牲を否定されるのは

意味不明だと感じてしまうのも無理はない。

 

ホルドーは仲間が次々にやられていくのをみていられなくて

ついに行動を起こす。

 

その動機は敵をぶっつぶすことではなく、

あくまで仲間を守るためであった。

 

ローズの姉もルークも基本的には相手をぶっつぶすことより、

仲間を守るという動機が一貫している。

 

ところが、フィンと映画の冒頭におけるポー・ダメロンは

とにかく、

敵を倒すことで頭がいっぱいになっており、

 

それが「最後のジェダイ」では一貫して間違った動機として

描かれている。

 

だからレイアはポーに説教し、

ポーを降格するのだ。

 

レイアも勝つためにメンバーを犠牲にしていいと

考えていないことが映画の初めに描かれている。

 

どうやら、この映画は自己犠牲そのものを否定しているのではなく、

敵を倒すことを最優先事項にすることを否定しているらしい。

 

憎しみはダークサイドへつながるという考え方は

オリジナル・トリロジーと一貫している。

 

敵を倒すことが最優先ではないという

微妙な倫理基準は

オリジナル・トリロジー

旧三部作から存在している。

 

ルークはダース・ベイダーを倒せば、

自分がダーク・サイドに堕ちてしまうという誘惑と常に戦っていた。

 

光る剣でチャンバラをする映画なのに、

ラスボスを自分の手で倒してはいけないのである。

 

憎しみはダークサイドにつながっているからである。

 

自分を憎しみに明け渡すと、

自分も悪役になってしまう。

 

「帝国の逆襲」でルークが修行中に

洞窟で倒したベイダーの顔が自分だったことは

まさに、自分がベイダーと同じになってしまうことへの恐怖だった。

 

そして、「ジェダイの帰還」における

ルークが憎しみでベイダーの手を切り落としてしまうシーンは

まさに、自分がベイダーと同じになりかけて

思いとどまる瞬間だったのだ。

 

スター・ウォーズは善と悪の戦いである。

光と闇の戦いである。

それは自分のうちにすむ憎しみと愛のどちらを優先しているか

ということでもある。

 

レジスタンス」という反乱軍の呼び名も

英語を直訳するならば「抵抗」という意味であり、

相手をぶっつぶすという意味ではない。

 

相手に支配されつくすことに抵抗するだけで、

相手をぶっつぶさないのである。

 

そういう意味でライアン・ジョンソン監督は絶妙に

スター・ウォーズの倫理基準を継承して

描いていると私は思う。

 

結論

 

そういうわけで、今日は「なぜ、ローズはフィンの犠牲を邪魔したのか」という話をさせていただいた。

 

ローズは大義のために生きると決めたフィンの

自己犠牲の動機にまだ自己中心性が残っていたことを見抜き、

最後のひと仕上げとして、

いや、違うでしょ。敵をぶっつぶすためではなくて、仲間を守るために

行動しなさいよと教えたかったのです。